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トプカプに眠るモンゴルの知の遺産

前回書いた、イスタンブールのトプカプ博物館に収蔵されているもうひとつのモンゴル帝国の重要な遺産とは、ペルシア語で記された歴史書の『集史』(ジャーミー・アッタヴァーリーフ)である。 これは一般観光客には公開されていない。研究者が申請すると、出してくれるのだそうだ。

『集史』の原典は失われてしまっており、何種かの写本が残されているが、トプカプにあるものは1317年の書写と伝えられるこの歴史書最古の写本で、「イスタンブール写本」と呼ばれる。

この史書は、チンギス・カンから五代目のモンゴル皇帝、大元ウルス(中国の平原にゼロから作られたその首都が大都=現在の北京である)を創始したクビライから統治を委ねられれた国家のひとつの現イラン地域に作られたフレグ・ウルスにおいて、国家事業として、ラシード・アッディーンに編纂が命じられた。

『集史』は、史上で屈指の史書である。

文字発生以来、各地各民族に歴史書は少なくないが、この『集史』には、それ以前のどの歴史書にもない特徴がある。

それは、14世紀当時に、“世界”として知られていた各地域の歴史を、ひとつの書物にまとめて記述したことだ。

まず「モンゴル史」が、その正史として作られた。

次に作られたのが、「フランク史」という名のヨーロッパ史、「ヒタイ史」という名の中国史、そしてアダム、ノアにはじまる「ユダヤ史」、「イスラーム・アラブ史」、中央ユーラシアの「トルコ史」、さらに「インド史」まで作られた。

自分たちの民族の正史としての「モンゴル史」に加え、これらの追加編纂された世界諸族史の部分については、フレグ・ウルスの首都タブリーズ郊外にそのために造営された「ラップ・イ・ラシーディー」という学術街に、世界各地より学者・知識人を集め、かれらの協力の下、しかも膨大な書籍・情報を収集してつくられたという。

このようにして、二段階の編纂を経て1310年に完成した『集史』は、モンゴルが自ら語るモンゴル帝国史であるとともに、上記の意味で、世界史上はじめて現れた「世界史」となった。 “史上屈指”とは、そういう意味だ。

それがペルシア語で記されているのは、その言語が当時の国際語であり、またペルシア語が歴史叙述の長い歴史をすでにもっていたからである。

トプカプには、この『集史』とならんでやはりモンゴル帝国の事業として編纂された、これとふかく関わるペルシア語の古写本もある。それは、『五族譜』(シュイ・パンジュガーナ)と呼ばれる。

『五族譜』には、次の五つの地域と人々の歴史が描かれている。

第一は、『旧約聖書』の世界からイーサー(イエス)を経てアラブ・イスラーム出現にいたるまでの「ユダヤ史」

第二は、“最後の預言者”とされるムハンマドから、さまざまなイスラーム王朝を経て、1258年にモンゴルに滅ぼされたアッバース朝最後のカリフにいたるまでの「イスラーム史」

第三は、伝説のモンゴル王、ドブン・メルゲンからはじまり、世界帝国の創業者チンギス・カンをを起点に一気に世界の支配者となった全モンゴル王族の系譜。

第四は、ローマ皇帝神聖ローマ皇帝ローマ教皇を二本立てに並列し、モンゴル時代のそのときまでの「フランク史」

第五は、伝説の人祖「盤古」からはじまり、1276年にモンゴルに開城降伏した南宋最後の皇帝・少帝にいたるまでの「中華王朝史」

前掲『大モンゴルの時代』の上記のふたつの部分を読んで、私は圧倒された。

14世紀はじめ(日本では鎌倉後期にあたる)の時点で、こんな風に広大に、かつ実際の各地域に即して世界とそれぞれの歴史を複眼的論理的にとらえ、記述していた者たちがいたのか! しかもそれが、あの獰猛なモンゴルとは!

そしてその驚きは、必然的に次の自己懐疑を導き出した。

これまでの自分は、モンゴルという民族について、何か大きく誤った認識をもっていたのではないか?

自分がそれまで漠然と思っていた、戦争と侵略にやたらに強く、だがそれだけでほかには何も遺していない民族というモンゴルについてのイメージは、実は何か根本的な誤解に基づいたイメージなのではないか?

そう考えたのだ。

そして、それはその通りなのだ。この本の著者の杉山正明が、92年の『大モンゴルの世界―陸と海との巨大帝国』以来一貫して日本のわれわれに豊富な素材と証拠をもって説き続けているのは、そのことなのである。

モンゴルは、ただやみくもに戦争を仕掛けただけではなかった。たとえば中央アジアやイランに遠征すれば、各種の工芸人・技術者など、特別な能力や技術をもつ人々を集団でモンゴル本国に連れ帰り、自分たちの領土となった中華本土に移住させた。それはこれまでいわれてきたような「強制連行」といった雰囲気のものばかりではないのだという。それは喜んで移住したり、移住後の快適な暮らしに満足し、家族の者たちを呼び寄せている例も沢山見出せるからなのだという。モンゴルではこういう人々を、特定の場所に業種別に集中して住まわせた。生活面や資金・資材面での不安・不足をなくし、ただひたすら心ゆくまで生産、開発に専念させた。

またこの『大モンゴルの時代』によると、クビライが構想し、まったく何もないところから30年をかけて実際に作り上げた夏の上都、冬の大都という南北ふたつの首都の都市の建設、運河を掘り抜いて海まで首都を繋げた大首都圏計画も、周到で見事なものだ。前記したように、その冬の都の大都の上に作られたのが、現在の北京なのである。 クビライはこの首都を何としても海に繋げたかった。そこでまったく水のなかった大都には、北方の山系から人工河川で大量の水を流れ込ませ、湖水として、そこに積水譚という港を作った。その港からは運河を掘削して東方50キロの通州まで結んだ。通州からは自然河川を大改修し、海港の直鈷に繋ぐ。現在の上海が中国の歴史にはじめて姿を現すのは、その直鈷と南宋の首都だった杭州を繋ぐ途上の海辺の一寒村としてだったのだという。

クビライというのは、恐るべき人物だったようだ。

世界でもクビライ研究の第一人者である杉山は、こう書いている。

「クビライは、覇権が確立した1264年ころから猛然と新たなる国家事業を開始し、1294年に80歳という当時としては信じがたい高齢で他界するまで、ただひたすら、つき進んだ。恐るべき仕事師であり、恐るべき建設者であった。クビライが成そうとしたのは、直接には、まったく新しいタイプのモンゴル帝国の建設だったが、それだけでなく、彼とそのブレーンたちは、その大元ウルスという国家を基礎に、まったく新しい世界の創生をめざしていたのではないか」

「クビライがほぼ30年をかけて建設を続けた大元ウルスという国家は、まことにユニークな、かつてないタイプの帝国となった。そもそもまず、すべてがはじめから、トータル・プランをともなう壮大な構想の下に、一切がいわば計算づくで周到に推進されたことからして、世界史上、ほかにそう例を見ない稀なことであった」

「国家としての尋常でないスケール、きわだつ計画性、推進された事業の多様さ、それを執り行う手配りの周到さ、その当の君主の一代のうちにほぼ達成された点、そして後世の人類史への大きな影響、―あえて似た例を探せば、ほとんど唯一、アケメネス朝ペルシア帝国の事実上の創建者といっていいダレイオス一世くらいものではないだろうか」

私がここに書いた『集史』の編纂に見られる、空間・時間の双方をつらぬく“世界史”という前例のない問題意識、前回書いた国際商品としての大型染付磁器を典型とする文化と産業振興、広大な国土を織り上げる緻密な行政組織等々を考えると、たしかに上に紹介した杉山の言葉には、ふかく頷ける。

だが、ではなぜ、そのモンゴルに、私が先に述べたような、およそ知性や文化、緻密な計画性とはまったく繋がらないような民族イメージが残されたのだろうか。

その皇帝のクビライを中心に、現在世界でも屈指のモンゴル帝国研究者の杉山によると、その理由はふたつだ。

ひとつは、「西欧中心史観」である。

これまでの世界史とは、西欧以外の者もふくみ、西欧が考えるそれを疑いのない枠組み、前提として、記述されてきた。西欧から見ると、世界史とは、自分たちが非西欧地域にはじめて接した16世紀の「地理上の発見」からはじまる。だからそれ以前に、ましてアジア人が、実際の国土の保有のみならず、“世界史”などという問題意識をもつこと自体が、あり得ないことだった。自己中心的というほかないその史観から、ここで述べてきたモンゴルの知的業績は、西欧人からまったく無視されてきたのだという。

また古くからその言語でのモンゴル関係文献の残る中国人の漢文史料では、中華意識というプライドから、自分たちが打倒されたモンゴルのことは、やはり西欧と同じく、“野蛮と殺戮”との負のイメージの強い記述でしか書かれていないのだという。

もうひとつは、モンゴル研究者の言語習得のハードルの高さという問題だ。

西欧人であれアジア人であれ、これまでのモンゴル研究者は、モンゴル語と漢文のふたつくらいは習得して文献研究を行なった。しかしながらそれらに加え、ペルシア語まで学んで文献を読みこなす研究者は、ほとんどいなかった。

だがモンゴル人が編纂し残した恐るべき問題意識と徹底性をもった自国および世界の諸族や地域の歴史は、『集史』という形でペルシア語で書かれている。その文献とそこに記述されている各地域の言語の文献資料を突き合わせなければ、“事実”は突き止められない。

日本には杉山の師に当たる本多實信という人物がいて、『モンゴル時代史研究』(92年刊)という名著の誉れ高い大著を著している(1万8千円と高価なので私は買う度胸がないままなのだが)。自慢に聞こえることをおそらく恐れ、杉山は明記していないのだが、日本のモンゴル研究者で上記の複数言語を読みこなして研究したのは、その本田とこの杉山が最初なのではないだろうか。そしてその本田は西欧の研究者に向け、欧文で書いた研究論文で既述のような問題意識から、世界史において普遍的に「モンゴル時代」という呼称と区分を設けるべきだと提唱しており、現在では西欧でもその主張への同調者は徐々に増えているとのことだ。

トルコから帰国後、私は杉山正明の『大モンゴルの時代』を読んで、モンゴルという存在についてのそれまでの蒙を開かれた。杉山にはさらに、『モンゴル帝国と長いその後』(講談社『興亡の世界史』シリーズ第9巻)もある。後者には、モンゴル帝国の最後の末裔のヒヴァ・カン国とブハラ・カン国のふたつが姿を消したのは20世紀の1920年だったことも記されていて驚く。

それらを読むとき、あるいはその内容を思い返しながらバーなどでひとり酒を傾けるとき、私の脳裡には、徐々に姿を現してくる建設中の大都をじっと眺めていたであろうクビライのモンゴル帝国時代や、あのトプカプが皇帝の宮殿として世界を睥睨していたオスマン・トルコ帝国の遠い過去の日々などが、浮かんでくるのだ。