木更津・富津紀行12 内裏塚古墳群 / 飯野陣屋跡

 4日土曜日は、富津(フッツ)埋立記念館からタクシーでJR内房線青堀駅に到着後、駅周辺の内裏塚(ダイリヅカ)古墳群巡りを開始しました。

 内裏塚古墳群とは富津市の小糸川下流域の沖積平野内にある、5世紀から7世紀にかけて築造された古墳群で、現在のところ前方後円墳11基・方墳7基・円墳29基の計47基が確認されていますが、その中で少しでも墳丘が残っている古墳は25基のみであり、22基は都市開発で完全消滅してしまいました。確認される事無く葬られた古墳も少なくないと考えられており、内裏塚古墳群で実際に築造された古墳はもっと多かったと推定されます。

 内裏塚古墳群の盟主墳の被葬者は、須恵国造(スエコニノミヤツコ)一族やその先祖だと考えられています。須恵国造は、茨城国造の祖たる建許侶命(タケコロノミコト)の子である大布日意弥命(オフヒオミノミコト)の子孫だとされています。5世紀後半から約半世紀間、古墳の築造が停止されますが、6世紀中葉以後、墳丘長100mを越える前方後円墳である盟主墳、そして盟主墳の下に位置する墳丘長約50〜70m級の前方後円墳、その下位にあたる墳丘長20〜30mの円墳が盛んに築造されるようになります。

 7世紀に入ると前方後円墳に代わって方墳が築造されるようになり、7世紀中葉まで築造が続けられました。

 先ずは青堀駅北口にある上野塚(ウワノツカ)古墳〔富津市指定史跡〕です。

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 5世紀末に築造された墳丘長44.5mの前方部が短い帆立貝形の前方後円墳で、古墳群最北端に位置します。現在は後円部の約三分の二と前方部の一部が残るのみで、昭和56(1981)年と昭和62(1987)年に周溝の調査が行なわれ、須恵器(スエキ)・土師器(ハジキ)の坏(ツキ)が出土していますが、墳丘中心部の埋葬施設は未発掘です。

 また、墳丘の下や周辺からは古墳時代前期を中心とした集落跡も検出されています。この古墳の築造後、約半世紀間に亙ってこの地域では古墳築造が行われませんでした。

 青堀駅東口に回ると、駅前に入館無料の「古墳の里 ふれあい館」があります。内裏塚古墳群のパネル展示等が行われているだけですが。分厚い富津市文化財ガイドブックが無料配布されていたのでラッキーでした。

 青堀駅から南下すると、5世紀中頃築造の前方後円墳である内裏塚古墳〔史跡〕があります。

 内裏塚古墳群の中で最初に築造された物で、墳丘長約144m・後円部直径約84m・後円部高さ約11.5m・前方部幅約88m・前方部高さ13mに及び、千葉県内では最大規模の古墳です。被葬者は須恵国造か、その先祖だと推定されます。

 明治39(1906)年に東京大学人類学教室、昭和39(1964)年に本郷高校が発掘調査を実施した結果、石室が二つる事が確認され、東の第一石室からは二体の人骨及び鉄製武器類が出土しました。北側にあった人骨は、胸の前で腕を折り曲げるように埋葬さた形で、整然と仰向けに埋葬されていました。

 鉄直刀2・鉄角棒1・鉄鎌1・長刀1等の外、直径13?の青銅鏡1面・朝鮮半島製の金銅製胡(コロク)金具や鏑矢(カブラヤ)も出土しています。

 墳丘には円筒埴輪列が三段巡らされ、家型埴輪や人物埴輪も置かれていたと推定されています。

 人物埴輪〔富津市指定文化財〕は一体のみ出土しています。

 鳴鏑(ナリカブラ)〔富津市指定文化財〕です。

 内裏塚古墳の墳丘上には絶世の美女として知られた珠名娘子(タマナオトメ)の塚があります。

 『万葉集』に奈良時代歌人である高橋虫麻呂(タカハシノムシマロ)の「上総末の珠名娘子を詠める歌一首」が収録されています。

 「しなが鳥 安房に継ぎたる梓弓 末の珠名は 胸別の広けき我妹 腰細のすがる娘子のその姿の きらきらしきに花の如 笑み立てば珠桙の道 行き人は 己が行く 道は行かずて呼ばなくに 門に至りね さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに鍵さへ奉る 人皆の かく迷へればうちしなひ 寄りてそ妹は たはれてありける」

 意味は「安房国に連なる周准(スエ)郡の珠名と言う娘は胸が豊かで可愛い娘 すがる蜂のように腰がくびれている娘 その美しい顔で、花のように微笑んで立っていると 道ゆく人は行く先を忘れ、呼ばなくても門まで来てしまう 隣の家の主人は、妻を離縁し、頼みもしないのに鍵まで渡して来る 皆が血迷うものだから、娘は調子コイテ遊んでばかりいる」って感じです。

 続いて6世紀末築造の前方後円墳である三条塚(サンジョウツカ)古墳〔富津市指定史跡〕に赴きました。

 墳長は約122mで、二重の周濠を持ち、周濠部を含めた全長は約193mに及び、墳長では内裏塚古墳群内で二番目の規模を持ちますので、須恵国造の墳墓の可能性が高いと考えられます。

 前方部高さは約7.3m・後円部高さは約6.0mです。

 墳丘からは埴輪が検出されていません。

 三条塚古墳は前方部の隅がカットされた独特な形をしていますが、前方部の両隅が共に同様の形状になっているため、後世の改変では無く、築造当初からカットされていたと推定されています。

 三条塚古墳は江戸時代に飯野藩の藩庁が置かれた飯野陣屋に取り込まれました。

 飯野陣屋は、慶安元(1648)年に保科正貞(ホシナマササダ)によって建築されましたが、敷地面積が123000?に及ぶ大規模な物で、日本三大陣屋の一つに数えられました。

 飯野陣屋濠跡は千葉県指定史跡となっています。

 ごく狭い物ですから、慶応4年(1868)年閏4月、旧幕府軍遊撃隊によって陣屋が包囲された際には、何の役にも立ちませんでした。

 飯野陣屋の土塁です。

 飯野藩の歴史については11日土曜日の日記《http://SNS.jp/view_diary.pl?id=1959145798&owner_id=250900》を参照して下さい。

 飯野陣屋内は本丸・二の丸・三の丸に区画され、三条塚古墳は東側周濠の一部が二の丸と三の丸との間の周濠となっている以外は、飯野陣屋三の丸の一部となりました。飯野陣屋内には三条塚古墳の他に方墳である稲荷塚古墳があり、また同じく方墳の亀塚古墳の一部も飯野陣屋の敷地内に掛かっています。

 三条塚古墳の墳丘の東側は、幕末に藩校明進館が建てられた関係で大きく掘削されており、また墳丘そのものも飯野陣屋築造当初は陣屋物見台として用いらていたと推定されています。埋められた西側の内側周濠一部には角場と呼ばれる弓の練習場が設けられていました。

 三条塚古墳西側の外側周濠は飯野陣屋三の丸の堀の一部として利用され、飯野陣屋の三の丸西側にある土塁の一部は、三条塚古墳の内周濠と外周濠との間の周堤を利用した物と考えられています。

 廃藩置県後、飯野陣屋が破却された後も跡地に人家が建てられる事が少なかったため、三条塚古墳墳丘西側は比較的築造当時の原型を留めており、後円部墳丘には横穴式石室の天井石が露出していますが、平成元(1989)年の発掘により主体部が未盗掘だと判明しました。

 飯野陣屋跡には飯野神社〔村社〕があります。

 元来は飯野陣屋の屋敷稲荷だった神社で、最初、二の丸東部の稲荷塚古墳の墳丘上に鎮座していましたが、宝暦8(1758)年に第6代藩主保科正富(ホシナマサトミ)によって本丸の西に接する現在地に移されました。

 その後、明治39(1906)年に一町村一社を原則に神社を統廃合し数を減らす「神社合祀令」が発布された結果、明治44(1909)年から二年がかりで飯野村内の全ての神社が取り壊され、15社を合祀した飯野神社として、飯野陣屋跡屋敷稲荷の地に新しく社殿が増営されたのです。この結果、主祭神は保食命(ウケモチノカミ)ながら、建御名方命(タケミナカタノミコト)・大國主神(オオクニヌシノカミ)・稚産靈命(ワクムスビノミコト)・素盞鳴命(スサノオノミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・迦具土神(カグツチノカミ)・大山咋命(オオヤマクイノミコト)・誉田別尊(ホムタワケノミコト:応神天皇)・大己貴命(オオナムチノミコト)・天照大御神(アマテラスオオミカミ)・佐田彦命(サルタヒコノミコト)・中筒男命(ナカツツオノミコト)・菅原道真聖神(ヒジリノカミ)・末珠名(スエノタマナ)が全て一緒に祭られるというカオスな状態となっています。絶世の美女末珠名(